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千日回峰行の酒井雄哉氏の「一日一生」を読む 上

 投稿者:佐藤  投稿日:2008年10月16日(木)17時00分5秒
編集済
  比叡山に千日回峰行を二回成し遂げた超人的な僧侶がいる。酒井雄哉(さかいゆうさい)師である。

どんなすごい人かと、その著「一日一生」を読んでみると、ごく普通の人。というより落ちこぼれの人生を送りかけた人だった。1926年(大正15年)大阪で生まれたが、父の会社が倒産して5歳で東京に引っ越す。麻布中学を受験したが受験に失敗。夜学の商業高校に入学。しかし学業に身が入らず、教師の奨めもあり、1944年(昭和19年)予科練に入る。運良く特攻隊で命を散らすことなく生還。若い頃は、さまざまな職業を点々とした。

株をやっていた頃、大金を稼いだこともあったが、1953年、ソ連の独裁者スターリンが死んで、「スターリン暴落」が起こる。丁度今のサブプライムローン暴落のような金融危機だった。大損をして、借金取りに追われた。

いい歳だというので、親戚が気を使って、従妹(いとこ)の女性と結婚をする。しかしこの女性が大阪の実家に帰ってしまう。びっくりして、東京から大阪まで追いかけていくと、少しして、奥さんはガス自殺をする。せめて49日はいてくれと、義父(叔父でもある)にせがまれ、妻の実家の鉄工所を手伝うことに。何故か居座っているうち、義母(叔母)に比叡山に登るようになる。そこで千日回峰行中の行者に出会う。何か心に響くものがあった。 それからだいぶ時が経って、自分も出家し、千日回峰行を行う道に入っていくのである。

千日回峰行は、丸7年をかけて行われる荒行中の荒行である。雨の日も嵐の日も、ひたすら夜中に寺を出て、比叡山中を歩き、午前中に寺に戻るというものだ。行の途中では、何があっても中断することは許されない。もしも途中で、この行を出来なくなった時は、たちまち自死して果てるという、そのくらいの覚悟を持って、行者たちはひたすら、千日山々を廻るのである。酒井師は、この荒行を二回行った。二千日回峰行を成功させた行者は、長い比叡山の歴史の中でも信長の比叡山以後3人しかいないというもの凄い記録だ。つづく
 

ドジャースの黒田投手一球で男を上げる

 投稿者:佐藤  投稿日:2008年10月14日(火)17時03分22秒
編集済
  ロサンゼルス・ドジャーズの黒田博樹投手(33)が、たった一球で男を上げた。その一球は、0勝2敗で迎えたフィリーズとのプレーオフ第3戦、3回2死で、相手打者の頭の上を通す危険なボールを投げたことだ。

その前に伏線があった。黒田の女房役マーチン捕手に、デットボールが当たった。黒田の一球は、その報復行為と見られている。この一球に激怒した対戦相手ビクトリノは、「首より下に投げろ。頭に投げるのは許されない」と言う仕種を数回行った。

当の黒田は何食わぬ顔で、相手をファーストゴロに切って取る。ところがアウトになったビクトリンが、ファースト近辺で黒田に何かを口走り、一瞬で乱闘の空気が漂った。両軍がベンチから飛び出す。結局、乱闘は起きなかった。この時、前のフィリーズ戦で頭にデットボールを喰ったドジャーズの主砲ラミレスのことも伏線としてあったらしく、ラミレスは、この乱闘寸前の状況で、「あの位で、興奮するな。オレは実際当てられている」と言わんばかりに、相手チームに食ってかかる行為に出た。

結局、この一球に、翌日7700ドル(77万円)の罰金が出た。相手は確か1000ドルだから、少し不平等な気もする。

しかし大リーグの公式ホームページでは、直後の記事で、「黒田はたった一球でチームメイトの信頼を勝ち得た」と報じた。同時に、チームメイトのマーチン捕手は、「黒田は忍者かサムライだ」と絶賛をした。この一球によって、チームがひとつになり、6回を投げて、二点に抑えた黒田は、二敗していたフィリーズに一勝をして、地元(ロサンゼルス)ファンを熱狂させたのであった。地元の有力視、ロサンゼルスタイムスは「デットボールを受けると謝罪する国から来たルーキーが3500万ドル(35億)の価値を証明」と妙な褒め方をした。

この黒田のエピソードを見ながら、日米の野球における感覚の違いを強く感じた。アメリカの野球では、報復という行為は、セオリーの中に入っていて、それによって、チームも熱くなり、ひとつになる効果を発揮する。もしも、黒田が、あの一球を投じなかったら、別に非難されることもなかったと思うが、これほど評価されることはなかったはずだ。日本では、ぶつけた場合に、投手は打者に頭を下げる風習がある。頭を下げない場合は、「帽子を取れ」とぶつけられた打者が要求することもある。アメリカでは帽子を取ったら、それだけで、勇者にはなれず、「腰抜け」とチームメイトから軽蔑されかねない。この文化の違いは面白い。

ドジャーズの名将トーリ監督は、黒田の一球を「故意かどうかはわからないが、けがをさせるつもりがなかったのは確か。・・・仲間は助けなければならない」(共同)とコメントをしたようだ。

今期大リーグ入りした黒田だが、公式戦の投球は、好投しても点が入らず結局9勝10敗に終わったが、内容的には、少なくても13勝から15勝の分の働きはあった。それでも、ワールドシリーズへの勝ち抜き戦(プレーオフ)で、二勝目を上げた黒田投手の評価は高まる一方だ。

松坂(レッドソックス)と岩村(レイズ)のオレ−オフ第一戦での力と力の対決も面白かったが私は、開拓者野茂が在籍していたドジャーズの一年目で、早くもアメリカ野球の水にすっかり慣れた印象の黒田の力投の方を買いたい。
 

株は何故下がるのか

 投稿者:佐藤  投稿日:2008年10月10日(金)17時05分22秒
  株がどんどん下がっている。今日10月10日、日経平均が、5年4ヶ月振りに9000円をあっさり割ってしまった。

一万円を割ったのが8日だったか。その僅か2日後、日経平均は8200円台まで急落してしまった。

これは直接的には、アメリカ発のサブプライムショックの煽りを受けての下落だが、冷静に考えてみれば、日本国内の内部要因があってのことだ。

まず第1には、姉歯事件に端を発した建設業界への締め付けという規制強化があった。また第2には、貸金業界に対する金利規制を含む規制強化がある。その結果、マーケットは市場性を急速に失って、不動産業界、貸金業界共に、急速に構造不況業種に転落してしまった。

同時に、この業種に対して貸付がストップし、不動産業、貸金業界のみならず、これによって、日本の金融市場は完全に機能不全に陥ってしまった。要は金融市場が壊れてしまったのである。

この責任は、政策を立案した自公政権にあることは明白だ。またこの政策を実行するために動いた官僚たちの出来の悪い法案にも大いに問題があることは明白だ。

したがって、今回の株価下落を、ひとりサブプライムショックになすり付けることには反対だ。

内部要因があることがはっきりしているのだから、処方箋は比較的簡単である。不動産と貸金業に対する規制を緩和するような政策を、直ちに打つことが効果があることは自明である。

またやり方次第では、サブプライムショックで、行き場を失った世界中の資金が日本株と円買いとして、日本に集まってくることだって考えられる。

個人で言えば、株が急速に下がっていることは、怖ろしいような気がするが、ちょっと見方を変えれば、たたき売り状態で、優良株が買えるというメリットもある。その意味では、現金を手元に置いて置くこと、つまりキャッシュポジションを高めることが大切であると思うのである。新聞を読んでも、雑誌を読んでも、誰も助けてくれる訳ではない。
 

日本経済がアメリカ、ヨーロッパに比べてキズが浅いというのは大ウソだ

 投稿者:佐藤  投稿日:2008年10月 9日(木)17時07分41秒
編集済
  アメリカ発の世界金融恐慌前夜を迎えたような嫌なニュースが続いていたところへ、ノーベル賞物理学賞で3人、化学賞で1人と、立て続けに受賞が決定して、どこかほっとしているようなマスコミの論調だが、日本のほとんどのマスコミは、本当のことを言っていないような気がする。

その第一は、日本の経済は、サブプライムローンで痛手を受けたアメリカやヨーロッパと比べて、キズが浅いという認識だ。

とんでもないことだ。そのことが問題の核心を突いていないことの簡単な証明は、下落率が、アメリカ、ヨーロッパ以上に、日本がひどいという一点を考えてみればわかる。

簡単に言えば、日本そのものが、内部で不動産規制や貸金業規制というガン細胞に犯されて、ガンになりかけているところへ、丁度エイズが日本に上陸しているようなもので、日本はその意味で株価が下落する内部要因(一般に官制不況と呼ばれる)と外部要因(サブプライムローンの破綻に象徴されるカジノ経済の破綻)のふたつを持っていることになる。

したがって、日本経済の立ち直りには、ふたつの病に対する処方箋を、別個に使い分ける必要があるということになるはずである。

その当たりは政治も、しっかりと心得た上で対処しないと、アメリカ発の危機という認識では、治療法を間違えることになる。特に、金融庁主導の、銀行への締め付けは、早晩政策的対策をうって除去しなければ、日本経済そのものが、壊滅的な打撃を被り兼ねないことを指摘しておきたい。
 

くりはら田園鉄道を撮る

 投稿者:佐藤  投稿日:2008年10月 8日(水)17時03分1秒
  昨年廃線になったくりでん(くりはら田園鉄道)の電車が、まだ若柳駅舎に置かれているという話を聞き、08年10月5日(日)向かった。

くりでんは、大正7年(1918)、栗原軌道鉄道として発足した。当初は石越ー沢辺間8.8キロの運転だった。その後、岩ヶ崎(栗駒)駅まで延長され、16.6キロに延長。さらに鉱山のあった細倉まで延長(1940)され、全線26.2キロとなり、地域の旅客と細倉で産出する亜鉛などを運搬する役割を担ってきた。

しかし自動車が急速に普及し、細倉鉱山の亜鉛に対するニーズが減少してくると、このくりでんは、採算が合わない状況に陥った。昭和62年(1987)細倉鉱山が閉山になり、いよいよ経営は厳しさを増した。度重なる駅の無人化などの合理化を図ってきたが、大きな時代の流れには抗しがたく、平成16年(2004)、株主総会で廃線が決まったものだ。

地元の人々は、この鉄道について、保存運動を行って来た。確かにこのくりでんは、石越(登米市)から栗原市を西に走る「栗原横断電車」とも言うべき電車だった。米所栗原の田園地帯をのんびりと走る風情は、実に味わいがあった。また細倉鉱山を含めた近代化遺産としての価値を考えあわせるならば、これを栗原観光のツールとして使用することも考えられた。

若柳駅舎に行くと、清算法人の事務局長となった鎌田健氏に、お話しを伺った。長い間、くりでんで頑張ってきた人物だけに、時代の流れとは言え残念と語られた。今後は、この電車を活用し、公園のような施設を作り、電車を走らせる計画があるという。

私は、このくりでんを、細倉鉱山と絡めて、近代化遺産として、ユネスコ世界遺産に登録される可能性があるので、この価値の研究を始められてはどうか、と話した。この細倉鉱山は、桓武天皇の時代(806)に開かれた1200年の歴史を誇る鉱山だけに、この鉱山の歴史と、近代以降の歴史を研究することによって、東北における鉱山運営の典型を証明できる可能性がある。

また宮城の米所の栗原は、平和の理念で建設された都市平泉の南に拡がる土地だけに、3年語後に世界遺産の登録が期待される平泉との関連性を考えても、この地の歴史的再評価が、生まれることも考えられる。

くりでんを、単に清算してしまうのではなく、もっと別の角度から光を当てることによって、本来の価値を見つけることもできるかもしれない。
 

しだれ桜の伐採 1

 投稿者:佐藤  投稿日:2008年10月 6日(月)17時07分12秒
編集済
  1 しだれ桜の伐採に立ち会う

平泉柳の御所から、一本のしだれ桜が消え去った。

しだれ桜のある柳の御所跡に行くと、伐採を委託されたという造園業の若者が桜の前に居た。傍らには、チェーンソーがあった。聞けば、岩手県の平泉生まれで、この木を伐ることに、少なからず、無念の思いがあるようだった。彼はこんなことをポツリと言った

「本当にもったいないですね。せっかくこれまで、大きくなったのに・・・」と言った。

午前10時、地元の有志が、桜の根元に御神酒をかけて冥福を祈った後、地元有志と県の教育委員会が見守る中で、チェーンソーがうなりを上げた。チェーンソーが無造作に、桜の根元に刃を入れた。すると、勢いよく、橙色がかった樹木の粉が舞い上がり、100年の老木も5分足らずでズシンという音を立てて、北向きに倒れてしまった。実に呆気ない瞬間だった。

倒れると、真っ先にこの桜の保存に一生懸命励んで来た佐藤文政氏が、根元に駈け寄って、切り倒された切り株に手を添えた。その後を追うように、地元の人々が、切り株の前に集まってきた。
「まだ、生きているようだ。切り株に湿り気があるぞ。」
「ほんとだ。生きていたようだ。」
「もっったいないな。」

おそらく、この樹木は、既に死んでいたと私は思う。誰かが言ったのだが、「樹皮を見ると桜というよりは、柿の木のようだ。乾燥しきっている。水を吸い上げていないのではないか。」

「立ち枯れ」ということがある。この木が、芽を出さなくなって、1年近くになる。亡くなったのは、その頃だろうと、考えられる。最盛期、樹高は15mほどあったが、最後には、縮んでいたように見えた。上部の方は、ほとんど木は枯れてしまっていた。皮を剥いで見ると、ダンゴ虫と呼ばれる黒い虫が無数にいた。またあめ色の何かの虫の幼虫が、うごめいているのが見えた。

また中には真ん中が、腐って泥のような状態になっている箇所の見られた。でもなんかと、根元から5mばかりの中心部を確保し、これから藤原清衡公の木像を彫るために確保をすることになった。

つづく
 

清原和博小論 1

 投稿者:佐藤  投稿日:2008年10月 3日(金)17時03分18秒
 
清原和博選手の引退セレモニーを見ながら、さまざまなことを思った。まず考えたのは、自分の持っている才能を開花させるということの難しさだ。

果たして、この清原選手は、自己の持つ才能を開花させたと言えるだろうか。高校野球の名門PL学園を卒業後、23年間の野球人生で、本塁打525本(歴代5位)、安打2316本(歴代10位)、打率272厘である。打率が予想以上に低い気がするが、おおむね立派な記録だ。清原の記録で、特筆すべきは、死球数196(歴代1位)、三振1944(歴代1位)にあるのかもしれない。これは逆に考えれば、ボールを逃げず、三振を恐れなかったということになる。

清原の野球人生で不思議なのは、新人王は取ったものの、打撃三部門(打率、打点、本塁打)のタイトルを一度も獲得しなかったことだ。おそらくこれだけの選手が、23年間、一度もタイトルと無縁だったことは、球界七不思議のひとつに上げても差し支えないだろう。

かつて西武のピッチャーで、後に西武の監督だったこともある東尾氏は、清原という選手について、「一般には、大もの打ちの選手と思われているかもしれないが、チームプレーに徹した男。自分のことは二の次に考えられる選手」という評価をした。その上で、97年から本人の念願だった巨人軍に入団したことについて、「巨人にとっては、素晴らしい買い物」という旨のコメントを出した。

これが清原という選手の本質かもしれない。野球界では、現在の清原には、怪物のようなイメージが流布されていて、「番長」などという、本人にとっては、余りありがたくないニックネームが付されている。

マスコミというものは、とかく野球選手を、ひとつのイメージ付けで、新聞や雑誌が売れれば、それで良しとする傾向がある。選手もマスコミが勝手に広めたイメージを仮面のように装って、野球人生を終えることも多い。その意味では、清原和博というスターの野球人生も、マスコミがイメージ付けをした「キヨハラカズヒロ」という偶像と実像との間には大きなギャップがあったと思うのである。

巨人軍の後半以降、清原のイメージはどんどん変化した。年を重ねて太ったりケガをしたこともあって、清原は、自分の身体を再構築するとして、マッチョな肉体改造をするようになった。これはひとつの賭けだったと思う。これが成功したか、失敗したか、と言えば意見の分かれるところだが、清原選手のボールを柔らかくコンタクトする才能にとっては、これは失敗ではなかったか、と私は思っている。この時の清原選手は、自分の肉体をハガネのようにして、ボールにぶつかっても、塁に出るのだという志向が強くなった気がした。

自分が若い頃のように打てなくなって、身を捨ててもという考え方が出てきたとも考えられる。この頃から、清原選手は、死球を恐れなくなった。見ていて痛々しい気さえした。

自分があの大スター清原であるということは、周囲から期待される存在である。それがプレッシャーとなり、身体がかじかんだようになって、余計に打てなくなる。本人にとっては、憧れの巨人軍、長嶋茂雄監督の下で選手だったということは、栄誉であると同時に、日々プレッシャーとの闘いであったに違いない。

巨人時代唯一3割を打ったのが2002年(318厘)だった。この年、巨人軍は、清原は、古巣の西武を下し、松坂から150mの特大本塁打を放って日本一になった。

もしかすると、清原にとっては、野球人生にとってピークの年だったかもしれない。つづく
 

アメリカ発の金融危機を乗り越えるのは日本が経験した知恵を活用することにあり

 投稿者:佐藤  投稿日:2008年10月 2日(木)16時58分28秒
  カジノ経済と言われたアメリカの金融帝国が揺らいでいる。世界中のお金がアメリカに集まり、金融工学と呼ばれる高等数学で商品化され、世界中の投資家たちが、アメリカという大国の信用を背景に、これを利益を生み出す金融商品として購入していたものだ。

歴史は繰り返すというが、同じことが日本でもあった。その時には、住専問題と言われ、最終的には、実は住専のバックにいた銀行が最後にババを掴んで、倒産するのではないかと騒がれたものである。

そのことをアメリカの金融会社も知っているはずなのに、国が変わり、商品名が「サブプライムローン」と変わると、人々は目先の欲に吊られて、罠にはまってしまうのである。

信用力の低い人も住宅を持てるというのは、素晴らしいことだが、住宅が永遠に価格上昇するというのは幻想に過ぎないものだ。

多くの金融の専門家やエコノミストが指摘するように、アメリカの金融市場が、正常に戻るためには、日本で行ったように、個々の銀行に直接資本注入するしかない、ということが言われているが、正論だろう。

株価が、収縮する度に、世界中のお金が消えて行っている。日銀は、この12日間連続して、誌上に資金を供給しているようだ。その意味で、アメリカの金融資本主義が破綻するようなことになれば日本もただでは済まない。住専問題の時に、日本が経験した処方箋を活用しながら、うまく今回の危機を乗りきる知恵がある。私は今回の金融危機を乗り越えるためには、日本の経験を活用するしかないと考えている。
 

平泉柳の御所のしだれ桜の枯死の意味を問う

 投稿者:佐藤  投稿日:2008年 9月30日(火)17時01分23秒
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  はじめに

今年のユネスコ世界遺産大会で、登録延期が決まった平泉で、9つのコア・ゾーンのひとつである柳の御所跡にあるしだれ桜が、「9月29日午後、県教育委員会によって伐採されることになった」という情報が入った。

04年8月以降、枯死寸前となっていたこの桜の甦生ボランティア活動を行ってから、早4年が経過していることになる。私は複雑な思いを抱いて、平泉に向かった。

私は東京からの新幹線の中で、次のようなことを考えた。

「この樹木が枯死して伐採されるという現実は、ひとつのメタファー(隠喩)のようなものかもしれない。この枯死という悲劇は、今年、当然のようにユネスコ世界遺産に登録されると思われてきた平泉の世界遺産入りが「登録延期」という結果になったことと無関係ではない。しだれ桜は、自分の命を通して、私たちに何かを伝えようとしているのではないだろうか」と。


1 現地で岩手県教育委員会の説明を聞く

午後1時半頃、柳の御所の現地に到着すると、県の関係者と地元の人々が、集まっていた。聞くところによれば、今日は伐採するのではなく、地元で甦生活動を続けてきた人々に、説明をするのだということだった。

話し合いの結果、10月4日(土)午前10時から伐採をすることになった。伐採後は、この樹木の有効利用を、県のHP上で募集中とのことだった。

私たちは、この樹木の状況を見た上で、木像を彫り、小さな社を建てて、そこに奉納したいと県教育委員会に伝えた。目下、この柳の御所跡は、ユネスコ世産遺産の暫定リスト入りしている平泉の9つあるコアゾーンに位置しており、簡単ではない。ただこの樹木の甦生に心血を注いできたことの努力を後世の人々に伝えていくためにも、形のあるものとして、残すことには意味があると思うのである。

私には、

2 柳の御所とはどんなところ

柳の御所跡は、奥州平泉の政庁「平泉館」と比定されるようになった。

考えてみれば、このように言われるようになったきっかけは、皮肉にも、1988年4月、平泉バイパス建設事業に伴い柳之御所遺跡発掘調査が開始されてから、土器などの遺物が出土した時からである。

また柳の御所は、松尾芭蕉が「夏草や兵どもが夢の跡」と詠った名所でもある。今から319年前のことだった。

さらにその500年前の8月には、鎌倉から義経亡き後、源頼朝が全国から28万人と言われる武者をかき集めて、奥州平泉にやってきた。その時の柳の御所の焼け落ちた模様は、鎌倉時代の正史「吾妻鏡」にも明確に記されている。

「(文治5年8月)22日 雨が甚だしい。午後四時頃、(頼朝公は)泰衡の平泉館に到着した。館の主は、すでに逐電し、家屋は灰燼となって焼失した。館の周辺の数町には、寂しさがただよっていて、人っこ一人居ない。軒を連ねていたはずの城郭は皆消え失せ、ただ焼土だけが拡がっている。ただ秋風だけが、幕を叩きながら、飄々と吹いている。」(現代語訳筆者)

3 しだれ桜の枯死の原因?!

このしだれ桜は、04年8月頃、急速に樹勢が衰えて、枯死寸前になったものだ。

樹勢が衰えた原因は、桜を調査した複数の専門家や樹木医の意見から、桜の数十メートル東側で平泉バイパス工事始まり、急速に桜の根元付近の地下水脈が激変したことによるものではないか、ということになっている。この仮設は概ね正しいのではないかと思う。

何しろこの年の6月頃から、平泉バイパスの道路計画変更となり、まず北上川の流路が100mほど、東に移動した。そしてしだれ桜の東側付近には、バイパスのための盛土が敷かれたのである。樹木の周囲の環境は、劇的に変わってしまった。特に樹木の南側には、水溜まりが出来てしまった。結局、同年の4月が、この桜が最後に花を結んだ年となってしまった。夏には、葉がすべて抜け落ちて、瀕死の状況になっているところを発見された。私たち有志は、当時の増田寛也岩手県知事に、保護の陳情書を送付することになり、県側もポンプで溜まった水抜きを行うなどをした。

マスコミも大きく取り上げた。地元の人々を中心に、このしだれ桜を守ろうという機運が急速に高まった。それから、熱心な甦生活動が展開された。同年9月19日には、同地に祭壇を設け、宮司をお呼びして祈願祭を行った。以後4年間、地元平泉の人々や盛岡の有志など、多くの人が甦生のボランティア活動を行ってきた。

その甲斐あって、2年後の06年春には、新芽が出て、本格的な樹勢の回復が期待された。だが、その後、新芽は、いつしか枯れ、昨年度からは、水分を吸い上げている感じも見られない瀕死の状態となっていたものだ。

4 しだれ桜を守る精神が平泉を世界遺産に導く

今、平泉は、当然登録されるものと思っていた世界遺産登録が延期と決まり、ショック状態にある。当初から、私たちは、平泉の世界遺産のコア・ゾーンにある桜が、枯死するような状況であれば、平泉そのものが、ユネスコ世界遺産に登録される資格はない、との立場で、この桜の甦生ボランティアを行ってきた。

このしだれ桜の命を守ろうと思う意識こそ、ユネスコ世界遺産の精神ではないか、との思いで私たちは、この4年間甦生のボランティア活動を行ってきた。しかしその甲斐なく、今回伐採となった。おそらく、このしだれ桜に魂というものがあれば、柳の御所を含む平泉の地をどのようなコンセプトで未来に伝えていくべきか、ということを問いかけているのではないかと思う。平泉は、初代藤原清衡が、中尊寺落慶供養願文に明確に記しているように、未来永劫、戦なき世を実現しようと祈念して、造営した新都だった。このことは、平泉の世界遺産運動に携わる関係者にも問われていることではないかと思う。

平泉の地は単なる観光地ではない。もちろんユネスコ世界遺産の精神もまた、登録することによって、観光資源としてのお墨付きを与える権威ではない。それは人類普遍の価値を持つ遺跡群を、持続可能なものとして、地元の人々が、包括的に守り抜くという覚悟が見えた時に、ごく自然な形で登録されるものではないだろうか。したがって、今年の「登録延期」を肯定的に考え直して見れば、私たちは、3年間のモラトリアム期間を、ユネスコ世界遺産委員会からいただいたようなものである。

◇ ◇ ◇

10月4日(土)午前10時、柳の御所跡の伐採式が行われる。私たちは、このしだれ桜の前に立って、この桜の無念の思いを共有しながら、登録延期となった平泉が世界遺産として、3年後に登録されることを祈念しようと思う。
 

誕生5日目早くもピンチ到来の麻生新政権

 投稿者:佐藤  投稿日:2008年 9月29日(月)00時56分43秒
  世の中には、とんでもない国会議員がいるものだ。

就任したばかりの中山国土交通大臣が、舌禍四連発で就任5日目で辞任をしてしまった。この人物は、福田政権で拉致担当の大臣をしていた中山恭子氏の夫君で東大法学部から大蔵省に入省したエリート官僚だ。

しかし成田空港で長年苦労してきた地権者を「ごね得」と揶揄し、
アイヌの人々の人権とアイデンティティーを無視して「日本は内向きな単一民族」と発言、また大分の教育界での不祥事をあたかも日教組が元凶であるかのような発言をし、直ぐさま、千葉県知事、北海道のウタリ協会、日教組から、猛抗議を受け、その場では、反省の弁を述べたが、翌日には、「日教組を潰すために火の玉になる」旨の発言をして、麻生新首相に罷免される前に、自分で辞任をしてしまった。

高級官僚出身のこの人物が、どのような精神構造をもっているのか、あ然とするような出来事だ。このことひとつをとっても、自民党政治の終焉を象徴する出来事のように思えた。また日本社会がいっきに溶解しているような印象をもった。しかも今回の発言は、大臣として許される範囲を遙かに超えた不適切な発言であり、任命した麻生新総理の責任問題に発展必至の舌禍事件というべきだ。麻生政権は、誕生5日目で、早くも大ピンチを迎えたことになる。
 

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