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源義経公を通じて人生の何たるかを探る掲示板
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「
永訣の月
」
村山直儀 作
「
腰越状
」
岩下浩 朗読
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皇居の景観
投稿者:
佐藤
投稿日:2008年10月30日(木)16時56分40秒
皇居の景観問題のシンポジウムがあるという。何でも皇居の前にあるパレスホテルが建て替えられて、100mの高層ビル化の計画があり、皇居周辺の景観に大きな影響があるというので、このシンポジウムの開催となったようだ。
皇居周辺の景観と言えば、日本を代表する景色だけに、堀の脇に高層ビルが建つというだけで違和感を持つ人がいるのも当然だ。昔ならば、「天皇陛下がいる皇居を見下ろすような建物が建つのは何事だ。」ということで烈火のように怒った人もいるだろう。
また現代であれば、100mの高さから、皇室のプライバシーを守れないという考え方があるかもしれない。
ともかく、皇居江戸城周辺の景観を、今後どのようにして持続的に保護していくか、という問題は、日本全体の景観保護の議論にも、大きな影響を及ぼしかねない議論だけに、このシンポジウムの動向が注目される。
山本定朝の「秋の暮れ」の句鑑賞
投稿者:
佐藤
投稿日:2008年10月29日(水)14時55分11秒
編集済
つるし柿さん
メールありがとうございます。光栄です。
メールを拝見しながら、次の山本常朝の句を思い出しました。
「ひとみなが江戸へ行くらし秋の暮」
彼を離れて、鑑賞すると、現代にも通じる鋭い句のように思えます。田舎で暮らしている人間が、やがて齢(よわい)を重ねひとり、田舎暮らしにすっかり染まっている自分に気付き、若い頃の夢や憧れ、好奇心などを思い起こしている人間の孤独が浮かんできます。
江戸は東京と名を変えたけれど、いつでも若い人間の憧れの対象として存在している。その「江戸・東京」という幻想性が、日本人の中で、何となく江戸・東京文化の優位性を形成してきたと思います。
ところが、中身を厳密に見れば、江戸・東京文化というものは、ある種のハリボテのようなものであり、近くに寄ってみると、形も中身も、そんなに立派なものではない。田舎にポツンとある神社や仏閣の方が、手の込んだ造りをしていることが多いものです。
こうして、再度、秋の暮れの句を読むと、人が深く人生を考えたり、哲学的な思索に耽る季節として、秋は実によい実りをもたらす時節だと思います・・・。
佐藤弘弥
お礼
投稿者:
つるし柿
投稿日:2008年10月28日(火)22時20分50秒
少し古いですが、下記のエッセイ(「葉隠」の説く武士道を考える)を読ませていただきました。小生が長年疑問に思っていたところが、わかったような気がします。ありがとうございました。
http://www.st.rim.or.jp/%7Esuccess/hagakure_ye.html
激動の2008年秋に想う
投稿者:
佐藤
投稿日:2008年10月28日(火)17時03分10秒
秋が深まってきた。木々もどことなく赤っぽくなり、夜空の星々にも、冬の星座
が混じってきた。
既に神無月と言われる10月も残り僅かとなり、霜月の11月がやってくる。2008年10月は、歴史にも、「世界の株式市場が、1929年の大恐慌以来の大暴落を記録した」と記録されるはずだ。
さまざまな出来事があった2008年も残り2ヶ月。世界中が、大混乱に一喜一憂している時、私たちは、まず周囲をよく見回し、人生とはいかにあるべきか、という人生哲学に立ち返って、わが身わが行動を律するべきだと思う。
狂乱する社会にあって、正常を保つのは容易ではない。しかし心に北極星のように変わらぬ信念があれば、それも可能となる。
政権交代以外に日本株下落を防ぐ道はない
投稿者:
佐藤
投稿日:2008年10月24日(金)17時02分32秒
日本の政治が、無為無策を押し通す中で、日本株は、サブプライム問題の本家本元アメリカ株以上の下げ率となっている。これは日本の株式市場の置かれた立場が、アメリカ株式以上に深刻な事態を迎えている、ということの何よりの証拠だ。
政府関係者や自民党政治家は、日本のバブルの経験をアメリカに教えれば、などと悠長なことを言っているが、現実として、アメリカ株式以上に、日本株が何故売られているのか、ということを真剣に考えるべきだ。
以前にも指摘したように、日本株式がアメリカ株以上に売られる要因は、官制不況とも言われる日本の自公体制下で必要以上の規制を重ねて、市場を雁字搦めにした官僚の政策シナリオが背景にある。例えば不動産不況の大きな原因は、姉歯事件以後に、建築基準法が改正されたことがあった。また貸金業法の改正によって、金利規制の強化によって、個人や中小企業に対する民間金融機関からの融資は、事実上不可能となった。
この結果、建築・不動産、金融業界は、大打撃を受けた。これは、アメリカ発のサブプライム問題とは、まったく関係なく、自公政治の中で、日本の企業活動を規制強化したことによって起こっている日本株売りの大きな原因のひとつである。
10月24日現在、前日比811円90銭安の「7649円08銭」となっている。要するに日本株は、03年4月28日に付けたバブル後の最安値「7607円88銭」に近づいていることになる。
この日本株の内部要因が、大きく影響していることを正しく認識した上で、日本の政治は、リスタートを切らなければならない。ズバリ言ってこれは、政権交代による本格的政権の樹立以外に出口はないと考える。
ブルーノ・タウトが撮った1930年代の日本を見る 下
投稿者:
佐藤
投稿日:2008年10月23日(木)16時58分17秒
1929年10月、アメリカのウォール街の株価暴落から世界は、大恐慌に突入し、日本経済も「昭和大恐慌」と呼ばれる未曾有の経済混乱に突入した。銀行が倒産し、取り付け騒ぎが起こり、町には失業者があふれ、地方の農村では農産物の暴落によって、若い娘を売るなどの悲惨な状況まで起こった。
タウトが祖国ドイツを離れたのは、1933年3月5日、ヒトラー率いるナチス党が政権を奪取樹立する寸前の3月1日だった。ワイマール憲法下の自由な空気がヒトラーの出現によって一変し、左翼的な思想を持っていたタウトは、迫害を逃れてやって来た。
世界恐慌が世界に黒い影のように世界中を覆い始めていた。日本でも、軍部が台頭し、1932年には、中国大陸に進出して、満州国を建国したのが、タウトがドイツを離れる1年前の1932年3月1日だった。そんな時代の一断片として、この写真を見ると、当時の日本人の経済的困窮のため息が感じ取れる気がしてくる。
この本の中で、タウトは、特に日本人の木造の住宅を褒めている。また日本人のしゃがむトイレをなかなか良くできているとも言っている。一方で日本橋の白木屋デパートなどのコンクリートの建物には、「退屈で趣味が悪い」と手厳しい論評を加えている。この辺り、一般の西洋人の感覚とは、まったく違うプロの建築家(芸術家)としてのセンスを感じる。
私が特に、好きな写真は、「おんぶアルバム日記」と題された数点の「おんぶ」を撮った写真だ。昔の日本人は、赤ん坊を、おんぶで育てた。しかもこの赤ん坊を背負うのは、赤ん坊の母だけではなく、兄弟姉妹あり、あるいは隣近所の子供たちみんなで、ひとりの赤ん坊を背負っていた。ここに赤ん坊を中心とした「オンブ・ネットワーク」のようなものが、間違いなく確立していた。しかも、赤ん坊と背負う方は、背中でたえず密着をしている。赤ん坊が泣けば、肩を揺すってあやし、寝かせるようにする。何とも微笑ましい写真が並んでいる。丸坊主の兄が弟か妹を背負っている写真、5、6歳の女の子が、赤ん坊ではなく、お人形さんをおんぶしている写真。確かに、小さな子は、人形を背負っておんぶのマネ事をしていたものだ。年の離れた姉さんか、近所の姉さんに背負われて、目をきょとんとしている男の子。雪国と思われる田舎で、どてらのような厚手の着物を着た若い母に背負われて、おんぶの位置を変えるために動いて、ピンぼけている写真。
今、日本から「おんぶ」という風習は消えてしまったが、おそらくこの「おんぶ」というものを日本人がしなくなったのは、高度成長で、田舎から都会に人口が流入し、田舎でも、農家などで、機械化したために、隣近所の付き合いというものが、極端になくなったためだったかもしれない。日本の美風とも言える「おんぶ」は、新しく地域社会に生まれてきた赤ん坊の社会デビューの象徴でもあった。しかしそれが失われた時、日本の赤ん坊は、別の社会的適合の道を探らねばならなくなった。
このタウトの70数年前の写真を見ながら、日本の文化の変転を目の当たりにしたような気がしてしまった。でも素敵な写真集だ。
ブルーノ・タウトが撮った1930年代の日本を見る 上
投稿者:
佐藤
投稿日:2008年10月22日(水)16時58分44秒
下北沢の古本屋さんで、「タウトが撮ったニッポン」という本を見つけた。古書と言っても、昨年(07年)3月に発売されたばかりの書籍だった。ブルーノ・タウトは「日本美の再発見」という岩波新書(赤)が出ているドイツの著名な建築家だ。
この人物が、1933年から36年の三年間日本に滞在して、さまざまな日本各地の風俗や建築物などを写真に残した。今回は、この一枚一枚の写真に、日付の入ったタウト自身の日記風のメモ書きが添えられている。
写真といい、タウトの視点の確かさという、実に味わいのある本である。この本の最初に、昨年の2月から5月にかけて、開催された「ブルーノ・タウト展 アルプス建築から桂離宮へ」のチラシが挟み込まれていた。この展覧会は、渋谷区神宮前にあるワタリウム美術館で開催されたものだ。おそらくこの書籍の所有者は、ここで、この本を購入したのであろう。書籍の具合も読み込んだ跡というか手の油によって、少し黄ばみかけているところが、またこの本のイメージとマッチしていて、いたく気に言った。
この本をめくっていると、何故か、1930年代の日本にタイムスリップしたような気がしてくる。大阪の天王寺の街並み(1933.6月23日)には、乞食(ホームレス)が、横になっている姿が写されていて、タウトは、その下に、「ボロは着ている元気でたくましそうな乞食」と記している。確かにその乞食は、悪びれる風もなく、着物を着て、大道の横に眠っている。立派な髭が生えている。実に立派な風貌をしている。折りからこの時には、世界大恐慌が日本にも波及し、昭和大恐慌の真っ直中にあった。何かの事情で、乞食に身を落としたのだろうか。時代を切り取ったような面白い写真だ。つづく
WBC監督人事についてイチローの三つの発言を考える
投稿者:
佐藤
投稿日:2008年10月20日(月)21時52分44秒
イチローが、18日、ついにWBCの監督問題について発言したそうだ。
おそらく、日本の報道で、北京オリンピックを指揮した星野氏が、日本プロ野球機構として、正式な議論や総括もないまま、横滑りの格好で、WBCの監督に就任する見通しだということを聞きつけ、これに対して、出場する選手側からの意見として発言したものとする推測される。
星野氏の北京オリンピックの指揮振りについては、選手側から公式な批判はなされないものの、出場したメンバーは、相当な不満が渦巻いていることは、すでに報道されている通りだ。
さてイチローの発言は以下の3点である。
「最強のチームをつくると言う一方で、現役監督から選ぶのは難しいでは、本気で最強のチームをつくろうとしているとは思えない」
「もう1度、本気で世界一を奪いにいく。WBC日本代表のユニホームを着ることが最高の栄誉であるとみんなが思える大会に自分たちで育てていく。シンプルなことなんですけどね」
「大切なのは足並みをそろえること。(惨敗の)北京の流れから(WBCを)リベンジの場ととらえている空気があるとしたら、チームが足並みをそろえることなど不可能でしょう」
WBCの監督を決める会議には、プロ野球の加藤良三コミッショナー、王貞治特別顧問、ヤクルトの高田繁監督、元広島の野村謙二郎氏、野村監督、星野氏が出席。
この第一回の会議において、野村監督の言によれば、一番若い野村謙二郎が七割ぐらい話したそうだ。この中で「現役監督からはスケジュールの関係で難しい」と説明し、現役監督を、WBCの代表から外そうとする発言が、そのまま会議の流れとなっていることを、野村監督は批判する。だったら、オレは何しにここに来たのだ。という訳だ。野村監督は、このままでは、星野氏が、横滑りするのが一番良いということになり、最初から予定線が決められていたのではとチクリと不満を漏らした。
さて、イチローの「現役」の選手が出るのに、監督は出れないというのはおかしい。という発言は的を得た言葉である。現に第一回は、ソフトバンク現役監督の王さんが務めた。考えてみると、若い野村賢二郎という人物が、WBCの推薦会議のメンバーに入ったこともおかしければ、その人物が、現役監督は難しいと、監督経験もないのに、言う意図が不明である。
イチローは、選手も監督も、本気でWBCで連覇をするつもりであれば、このような考えはおかしいと言うことであって、筋が通った意見だ。
第二の発言は、選手側の意見を代弁する発言だ。おそらく、イチローの耳に、星野采配への不満が、幾つも届いているのであろう。このまま星野監督で決定した場合、イチローを含めて、WBCへの参加を拒否する動きが内在していることを感じさせる発言である。
第三の発言は、WBCは、北京オリンピックのリベンジではなく、前回WBCのチャンピオンになった日本代表チームの二連覇に焦点を当てるべきだという発言であり、これも納得いくものだ。
要するに、この発言でイチローが言っているのは、誰もが納得できるような監督人事を行って欲しいということだ。アメリカ大リーグにも詳しく、野球通の加藤コミッショナーの手腕に期待していたが、今のところ、プロ野球の黒幕のような組織や人物の意見を鵜呑にしたような流れの監督選びを行っているようにしか見えないが、これではイチローを始めとする日本最高の現役メンバーの人選は難しくなるばかりだ。
会議メンバーの高田ヤクルト監督が、日本一チームの監督が、指揮を執るべきだと、発言したようだが、これは確かに一番理に叶った人選の仕方のような気がする。
千日回峰行の酒井雄哉師の「一日一生」を読む 下
投稿者:
佐藤
投稿日:2008年10月20日(月)16時49分31秒
編集済
酒井雄哉師が言われる「一日一生」という言葉に含まれた寓意というものを考えてみよう。単純に言えば、この言葉は、一日を一生と思って生きる、というある種の覚悟のようなものかもしれない。私たち普通の人間は、一日を長い一生の一コマとしか思って生きていない。一日を軽く見て暮らしている。しかし今日という一日は掛け替えのないもので、二度と戻って来ない貴重な24時間である。
酒井師は、90日に及ぶ常行三昧行をやろうとして、たった二日で、足がゾウのように腫れてギブアップしそうになったエピソードを語っている。その時、忘れていた師から言われた一言が沸いてきたそうだ。それは「呼吸だ」という言葉であった。これは酒井師の師が若い頃、ビルマ(ミャンマー)に修行中、歩く禅を行っていた頃、やはり同じような境地に陥った時、彼の国の高僧に聞いた一言だった。
常行三昧行は、天台宗では極めて大事な修行法である。常行堂に籠もり、一日20時間以上昼夜を問わず、ご本尊である阿弥陀様の周囲を歩きながら念仏を唱える。二時間の仮眠が許される。天台宗の僧侶でもある作家の瀬戸内寂聴さんは、中尊寺で出家した人物だが、出家をすることについて、「生きながら死ぬこと」であると言われた。確かに一理ある。この常行三昧行を行う行者は、生と死の領域を行き来しながら、人生の何たるか、世の中の何たるか、自分の何たるか、を探しているように思われる。
二千日回峰行を成し遂げた大阿闍梨酒井雄哉師は、今でも、恩師から授かった「東西南北」という言葉を考え続けている。酒井師の師はその時、「これは聖徳太子さんが昔言った言葉だ」と言われたそうだ。考えて見れば、修行とは、千日、あるいは二千日回峰行を達成したから終わるものではなく、生きている間中、絶えず日々考え続けることかもしれない。一日を一生として生きる覚悟があって、千日、二千日と常人の私たちからすれば、考えられないことを酒井雄哉師は成し遂げたのだろう。
NHKのドキュメンタリーでの師の言葉が思い出された。「私は頭が悪かったからこの道で頑張るしかなかった」と確か言われた。そして師は屈託なく笑った。ホントに素敵な白菊のような笑顔だった。
千日回峰行の酒井雄哉氏の「一日一生」を読む 中
投稿者:
佐藤
投稿日:2008年10月17日(金)16時54分38秒
編集済
千日回峰行は、今日の日本人の常識では、とても考えられない厳しい修行である。
NHKで酒井師の千日回峰行のドキュメンタリーがあった。自身の寺で勤行を行った後、夜中(深夜2時)から6時間ほど掛けて、比叡山中を40キロほどの道程を歩きながら、255箇所の定められた場所を礼拝し、巡礼をするのである。すべてのものに仏が宿るとする天台宗の教えを実践し、不動明王と一体となるための修行であるという。このドキュメンタリーを見て、いかに信仰のためとは言え、ただただ驚くばかりだった。しかも、のんびり景色を見ながら歩くという行為ではない。獣のように小走りに走っているという印象だった。重いカメラをもって、酒井師について行くことなど不可能である。天狗か忍者の所業にしか見えなかった。
この回峰行の原型は、中国に留学した慈覚大師円仁が、天台宗の総本山五台山で行われていた回峰行を習って、日本で始めたものと言われる。これに山伏の山岳修行が加味されて、現在の比叡山の千日回峰行の形が出来上がったものと思われる。
酒井師は、白装束に薄くした木で編み込んだ独特の編笠を被り草履という出で立ちである。腰には、短刀と紐を持つ。これは自害の時の備えてののことだ。
千日回峰行は、単に千日続けるのではなく、厳しい戒律と決まり事が決められていて、その通りに進行する。まず1年目から3年までは、年間に100日間、この回峰行を実践する。4年目から5年目では200日間となる。これで700日の回峰行を終える。
ここからが、さらに辛い修行になる。一般に「堂入り」と呼ばれる修行だ。これは堂内に籠もり、9日間不眠不休で10万遍、不動明王を讃える真言を唱え、不動明王と一体となることを目指す。しかも食事と小用を足す時以外には、座れない。食事は愚か水を呑むことも許されない。この修行中に亡くなった修行者もいるので「生き葬式」と呼ばれるのである。
おそらく、普通の人では、間違いなく命を落としてしまうだろう。千日回峰行で、自分の身体を鍛え抜いているために可能になる荒行だ。この行を満行した酒井師は、水を取る桶を背負って、堂の中からフラフラと歩いて来るシーンがあった。本当に骨と皮だけの仏陀の修業時代の仏像を彷彿とさせるような姿だった。その姿を、遠くで信者さんたちが、暗がりから手を合わせて見守っている。まさに回峰修行を行っている行者は、生き仏なのである。
千日回峰行の残り300日は、さらに凄まじいものになる。6年目での京都にある赤山禅院まで約60キロを100日間歩く。7年目には「京都大廻り」といって、京都市内の決まった寺社を廻る一日80キロを越える距離を100日間続く。この時、信者さんたちは、酒井師が来るのを、毎日仏に会うようにして道に腰を下ろして待っている。酒井師は、その人の頭に、そっと数珠で撫でて通り過ぎる。7年目最後の100日は、再び比叡山中を歩き通し、千日回峰行は満行となるのである。
こんな凄いことを二度も成し遂げた人が、「一日一生」という気構えで生きていくと、あんまりつまらないことにことわらなくなるよ。・・・今日のことは今日でおしまい。しこりを残さない。恨みを明日に引きずらない。それは国家同士でも同じこと。一日一日、生まれ変わったつもりで新しい気持ちで出会うことができれば、世界もきっと穏やかになるだろうね。」という何気ない言葉が、重い言葉として響いてくるのである。つづく
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